また、幣原喜重郎内閣の厚相だった芦田均が残した記録、通称「芦田メモ」には同年2月19日の閣議での一幕が記されているが、これもまた半藤が語る「国民の心情」を裏づけている。
〈自分はこの時発言して、もしアメリカ案が発表せられたならば我国の新聞は必ずやこれに追随して賛成するであろう、その際に現内閣が責任はとれぬと称して辞職すれば、米国案を承諾する連中が出てくるに違いない、そして来るべき総選挙の結果にも大影響を与えることはすこぶる懸念すべきであると。〉【脚註3】(引用者の判断で一部を新仮名遣いに改めた。以下同)
「芦田メモ」によれば、松本烝治国務相と副島千八農相もこの芦田の発言に賛同したという。ようするに当時の内閣は、GHQ案が公になれば国民はそちらを支持し、自分たちがこれを拒否すれば予定されている総選挙で落選するのではないか、と危惧しているのである。
この日本政府側の認識こそ、当時、間接的に「民意」が憲法の制定過程に反映された証拠だと言える。事実、毎日新聞による世論調査では、象徴天皇制の「支持」が85%、戦争放棄条項の「必要」も70%という結果が出ている(1946年5月27日付)。
それでも、連中は「憲法は密室でつくられた」として「押しつけ論」に執着する。では訊くが、仮に国民が日本国憲法制定にあたって“直接的に”条文に介入していないことをもってして「押しつけ」とするならば、松本案だって「押しつけ」に違いなく、ましてや欽定憲法である明治憲法も「押しつけ」になる。
もはや連中の論理は破綻しているわけだが、ようするに、百田や日本会議が主張する「GHQが押しつけた憲法」は、せいぜい、当時の日本政府の“保守的な姿勢”に対する「押しつけ」でしかないのだ。
では、ここで日本会議の“改憲映画”の内容に戻ってみよう。映画のなかでは、GHQとの交渉にあたった白洲次郎が〈「今に見ていろ」ト云フ気持抑ヘ切レズヒソカニ涙ス〉(外交資料館所蔵「白州手記」)と書き残していることを強調する場面がある。
しかし、これは白州の全体像を無視し、ひとつの記録を改憲に援用する典型的なフレームアップの手法だ。実のところ、当の白州は日本国憲法について「諸君」(文藝春秋)1969年9月号でこう書いている。
〈始めから、新憲法を押しつける決心であったかどうかは別として無理のない事情もあった。それは松本烝治博士による日本政府最後の憲法修正案も天皇主権であったからだ。終戦直後においても事態の認識はあまかったようだ。この認識のあまさが、戦争自体を誘発したともいえるが。〉【脚註4】