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『嫌われる勇気』を読んで考えた「自己啓発を捨てる勇気」

 著者たちもインタビューで述べているとおり、ソーシャル・メディアの普及によって私たちはFacebookの「いいね!」やらLINEの「既読」やらに一喜一憂する毎日を送っており、そうした生活で感じる疲労や疑念が本書の売れ行きを後押ししているようだ。ただでさえ日本人のコミュニケーションには過剰な同調圧力がともなうというのに、ソーシャル・メディアがそれをさらに増大させているのだ。このような息苦しい状況があるからこそ、本書はウケたのだといえる。

 たしかにそうした状況下では、本書のメッセージ──Facebookの「いいね!」なんか気にするな、過去のしがらみのことなど忘れよう、そして自分のことは「いまの目的」に照らして自分で決めよう、だから「嫌われる勇気」を持て!──は心地よく響くだろう。でも、これは全然アドラー的ではない消費の仕方だ。それで元気が出るのは、社会の生きづらさという「過去の原因」に対するリアクションでしかないのだから。実際、私たちの多くにとって自己啓発書を読むという経験は、お笑いのリアクション芸と同じで、その場(読んでいる間)だけしか効かない一服の清涼剤や強壮剤のようなものだ。だから同じような自己啓発書を何冊も買い込む羽目になる。誰もが読むだけで満足して何もしないからこそ、こうやっていつまでも自己啓発書ビジネスが成立するのである。

 アドラーの教えは本来、心地よいどころの代物ではない。著者も「劇薬」と評しているとおり、自分自身の「いまの目的」だけに従って生きるよう促すアドラーの教えは、相当に苛酷な要求を課すものだ。だからこそ、本文にもあるとおり、アドラー心理学をマスターするにはこれまでの人生の半分の時間が必要だといわれるのである。いま30歳なら15年はかかるというわけだ。私たちにそんな気があるだろうか? もちろんないだろう(アドラー心理学や自己啓発のプロになるのでなければ)。

 となると、同じだけの長い時間を自分自身の「いまの目的」のために趣味や特技(ビジネスであれプライベートであれ)に費やすというのが、真にアドラー的な解決のはずだ。そうなれば自己啓発書を読んでいる暇などなくなる。

 瀧波ユカリの人気コミック『臨死!! 江古田ちゃん』(講談社)に、こんな場面がある。独身フリーターの江古田ちゃんは、つい魔が差してセックスしてしまった男の部屋で、自己啓発書がギッシリと詰め込まれた書棚を見る。そこで彼女は「またつまらぬ男と寝てしまった」と我に返るのだが、女でない私にも、その残念な感じは理解できる気がするのである。アドラーが私たちに問うているのは、「嫌われる勇気」であるとともに、「自己啓発を捨てる勇気」なのかもしれない。

 そうなった暁には、出版業界の低迷はいよいよ最終局面を迎えることになるかもしれないけれども……。
(二葉亭クレヨン)

最終更新:2014.07.16 07:06

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