象徴的なのが、2016年1月29日付東京新聞の取材に対し、義家弘介文科副大臣(当時)が放った発言である。
義家氏は「組み体操はかけがえのない教育活動で、悪いことではない」「危ないのは組み体操だけではない。何件だから危ない、と線引きすることには慎重な対応が必要」「事故が起こって問題になったからと上から目線でずばっと何段と切るのは、指導上は不幸なこと」「事故が起きているのは組み体操だけでない。柔道、剣道などあらゆるところに規制を出さなければいけなくなり不健全」などとして、すでに十分過ぎるほど危険性を指摘されている組み体操を徹底的に擁護したうえで、こんな戯言まで述べたのだ。
「(組体操は)自分も小中学校で行ったし、小六の息子も去年やった。五~六段の組み体操で、息子は負荷がかかる位置にいて背中の筋を壊したが、誇らしげだった。全校生徒が羨望のまなざしで見る中で、「ここまで大きくなった、見事だ」と私自身がうるうるきた」
自分を犠牲にしてでも他に奉仕することを強い、それに美しさを見出す組み体操をめぐる彼らの思考回路は、「国のために“個”は捨てろ」と全体主義的な価値観を国民に強要させようとする安倍政権の思想と完全に合致する。
教育勅語を再評価する動きにも共通するが、1958年に岸信介内閣が「道徳」授業を復活させるなど、右派による教育政策におけるバックラッシュの動きは長くあり段階的に進んできたものではある。しかし、「教育勅語」再評価の動きや「道徳」教科化などに象徴的なように、近年の安倍政権による戦前回帰・復古的な教育政策はやはり際立っているだろう。
前出の内田良氏は、著書『教育という病 子どもと先生を苦しめる「教育リスク」』(光文社新書)のなかで、組み体操は戦後教育のなかでいったんは廃れていたものであったと説明している。
戦後まもなくの時期には〈小中高すべての学習指導要領に記載があ〉ったものの、死亡や重度障害の事例が後を絶たず訴訟に発展することもあり、〈おそらく組体操の文化は少しずつ、衰退していったものと推測される〉というのだ。実際、現在の30代・40代は子ども時代に、現代のような巨大な組み体操はやったことがないという人のほうが多いだろう。
しかし、それが2000年代に入ってから復活した。内田氏はこのように綴る。
〈組体操において、子どもたちは痛みや恐怖を感じる。だが、それは他者のためであり、そのようにして皆で相互に耐えることで1つのものをつくりあげていくという教育的物語が、そこにある〉
「伝統をつなごう!」や「我慢し、努力し、一生懸命な姿が感動を生む!」といった安倍政権の復古的価値観が生み出した負の産物が、いまようやく国際社会から判断をくだされようとしている。安倍政権はこの状況を真摯に受け止めるべきだ。
(編集部)
最終更新:2019.01.18 11:45