もっとも、麻生太郎という政治家の女性差別はいまに始まったことではない。実際、麻生氏は2006年の講演会で、女性の性被害について「夜、日比谷公園で女が一人で歩いている。考えられない。しかもそこそこの顔をしているやつでも襲われない。この国はやたら治安が良いんだ」と発言。もっと有名なのは1983年の高知県議選の応援演説で言い放った「婦人に参政権を与えたのが最大の失敗だった」という“女性の人権否定宣言”だろう。
こうした麻生氏の女性蔑視を考えれば、今回の発言も、その頭の中がダダ漏れになったということだろう。しかし、問題は、なぜこんな政治家がクビを切られず、のうのうと大臣を続けているのかということだ。
麻生のこうした差別発言を“麻生節”などと言って、もてはやすメディアの問題もあるだろう。
もちろん、安倍首相にとって、麻生財務相は内閣の屋台骨的存在であり、総裁選でも3選をバックアップしてもらう関係であるため、おろすにおろせないという、政局的な理由もあるだろう。
しかし、それでもここまで、不祥事と暴言が続けば、普通は引導をわたす。しかし、そうしないのはやはり、安倍政権が国民をなめているからだ。つまり、どんなその場しのぎのデタラメや嘘でも、信じられない暴言でも、強弁を続ければ、そのうち国民が批判することに疲れてきて、問題がうやむやになり、批判が落ち着くと踏んでいるのだ。
このパターンは、自衛隊日報問題や森友・加計学園問題など、昨年、政権を巻き込むスキャンダルが続発して以降、すべてにおいて踏襲されてきた。だから、雑魚はともかく、麻生財務相のような重要閣僚は何があっても決してクビを切らないし、それだけでなく、一切の非を認めようとしないのだ。
今回の福田次官セクハラ問題も、完全に同じ作戦に持ちこもうとしている。
麻生財務相をはじめとする政権側が、最初の「週刊新潮」報道直後から一貫して女性の人権を軽視する発言を繰り返し、どれだけ批判されようとも辞任はおろか謝罪や撤回すらしないのは、そうした態度をとり続ければ、国民のほうが勝手に疲弊し、「もう何を言っても無駄だ。放っておくしかない」となるに違いないと思っているからだろう。