元少年Aは本当に「凶暴」で「更生していない」のか? 「週刊文春」の直撃記事は妄想と煽りだらけだった

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元少年A『絶歌』(太田出版)

 少年Aは今もヤバかった、あいつはやっぱり何をするかわからない、あんな凶暴な奴を野放しにしていていいのか。先週、「週刊文春」(文藝春秋)が神戸児童殺傷事件の「元少年A」直撃の一部始終を報道して以降、週刊誌やネットでこんなヒステリックな声が再び広がっている。

 たしかに、「文春」の記事を一読すると、元少年Aは今も危険人物であるとの印象を強く受ける。直撃した記者に対して、「命がけで来てんだろ?」というセリフで威嚇し、その後も1キロに渡って記者を追走、逃げる記者を「お前顔覚えたぞ」と鬼のような形相でにらみつける……。その姿は過去に少年犯罪を犯した人物というより、現役の凶暴犯のイメージだ。

 しかし、記事の中身を仔細に読み直してみると、このイメージは意図的につくられたもので、事実はまったくちがうことがわかってくる。ヤバいのはAではなく、むしろ記者の勝手な被害妄想をそのまま活字にし、Aの凶暴性と異常性をひたすら煽り続けた「文春」の記事のほうなのだ。

 まず、〈「神戸連続児童殺傷事件のことで」と伝えた瞬間、男の表情は一変。〉というリードからしてそうだ。これだけ読めば、読者は、「文春」が声をかけたとたん、Aがいきなり声を荒げ暴れたかのような印象をもつだろうが、しかし、実際のAはすぐに怒り出したわけではない。

 「文春」の記者は自宅アパートの駐輪場でAを待ち伏せし、買い物から帰って来たところを突然、声をかけているのだが、その際、Aは「違いますけど」「申し訳ないんですけど、ちょっと帰ってもらっていいですか」と、なんとか穏便に取材から逃げようとしていた。

 記者がさらに「我々の取材では、犯人、容疑者があなただと」と食い下がっても、「人違いされてるんで。申し訳ないけど、うん」と冷静に取材拒否を繰り返していた。

 ところが、その後も記者が「こちらにお住まいですよね」とさらに詰め寄るなど、2ぺージにわたる長いやり取りがあり、記者が手紙と名刺を手渡そうしたところで、Aが耐えられなくなって、切れてしまったのだ。

「文春」によれば、Aはそれまでのか細い声から一転し、「いらねえよ」「違うって言ってんだろ」とドスの利いた声で張り上げ、タイトルにもなった「命がけで来てんだろ」というセリフを繰り返し絶叫したという。

 そして、「文春」はこのセリフをもって、少年が今も凶暴性をもっていることを強調するのだが、ちょっと待ってほしい。

 直撃取材した相手に怒鳴られたり、激高したり、など週刊誌記者ならよくある話ではないか。直撃した場合でなくとも、告発者やインタビュイーなど、被取材者が記者に対して「命がけ」などと言ってコミットを求めることは珍しくない。

 加えて、「文春」は事件当時はもちろん、Aが『絶歌』(太田出版)を出版したときも、ホームページをオープンしたときも、一貫してAを糾弾する論陣を張っている。そんな相手にたった一度訪問しただけでスムーズにインタビューなどとれなくても、当たり前ではないか。

 自分たちで挑発しておいて、Aが怒り出した途端に犯罪予備軍扱いする。このやり口はいくらなんでも卑怯すぎるだろう。

 しかも、「文春」は、Aが怒り出す際の描写で、「“何か”をもっていることをアピールするためか、左手はずっとコートの中に入れていた」などと書いている。実際のAは左手をコートの中に入れていただけなのに、まるで刃物などの危険な武器をしのばせているように描くのだ。

 Aの表情を「左目は陶酔するかのように潤んでいた」と書いたのも同様だ。本当に潤んでいたのなら、「涙目」というのが普通だが、「陶酔」という言葉を使ったのは、Aが暴力的な行為に恍惚を感じている、精神鑑定の「性的サディズム」傾向は今も矯正されていないとのイメージを作り上げるためだろう。

 さらに、ひどいのは、怒ったA が記者に「お前、顔と名前、覚えたぞ」と言ったくだりだ。これも取材上のトラブルではよくあることだが、「文春」はこのセリフの後、「Aは、一度目に映ったものをいつでも再現できる直観像素質という能力を持つ」などと仰々しい解説をする。

 いやいや、記事にして2ページ分も会話をし、自分から名刺を渡しているのだから、そんな能力なんてなくても、顔と名前くらい覚えられる。こんなことまでA特有の異常な能力のように言い立てる妄想力にはほとほと呆れ返るしかない。

 その後の逃亡劇となると、もはやギャグだ。記者はそれまで執拗にAに食い下がり、追い詰めながら、Aがカメラの気配を察知して大声を上げたという理由だけで、急に身の危険を察知してその場から逃げ出す。

 そのうえで、勝手に「記者が車に戻っても、興奮状態のAに追いつかれれば、乗り込む時間的余裕はない」と大げさに危機感を募らせ、「照明のある場所を目指して、まず近くにあるショッピングモールの方向に走り出」すのだ。

 そして、「Aも全速力で追ってきた」「こちらに迫ってくる」「鬼のような形相で記者の顔を凝視」など、1キロにわたって追いかけてきたと、まるでサイコホラーのような筆致で恐怖体験を得々と語る。

 しかし、これ、A が写真を撮られたことに対してパニックを起こし、怒って写真を消去させようとしただけなのではないか。実際、Aは手記『絶歌』でも、職場の後輩にカメラを向けられた際、自分がパニックになって、カメラを壊してしまったことを告白している。いや、Aだけでなく、週刊誌に写真を隠し撮りされた有名人がカメラを叩き壊すトラブルなど、過去に山ほどある。

 しかも、「文春」を読むと、記者がたった一人で人目のないところで恐ろしい目に遭ったように思い込んでいる人も多いが、そんなことはまったくない。実際は直撃した記者だけでも2名、また近くにカメラマンを配置、さらにおそらくは車で待機している者。少なくとも3〜4名の「取材班」でAを訪れているのだ。

 夜、照明もない、暗く人目のない時間帯も場所も、何もAが指定して呼び出したわけではなく、記者たちが自らその時間と場所を選んで直撃しているのだ。3人がかりで自宅そばで不意打ちされ、住所も顔も名前も把握され、客観的に考えれば、元少年Aのほうがよっぽど恐ろしかったはずだ。
 
 もうひとつ、「文春」が悪質だったのは、電車に乗っているAを隠し撮りしたグラビアページだ。わざわざ「すぐ隣には男子児童が座る」などと思わせぶりなキャプションを入れ、連続児童殺傷事件を連想させてまるでAがその男子児童を狙ってでもいるかのような印象をつくりあげている。しかし、本文をよく読めば、この男子児童は後から乗り込んできてAの隣に座っただけのこと。250日の総力取材とやらのなかから、男子児童が隣に座ったこの写真をわざわざ選び抜いているのは、ゲスとしか言いようがない。

 ようするに、記者の勝手な妄想と煽りで、Aを“異常なモンスター”に仕立て、ひたすら「元少年Aは危ない」「更正していない」「危険」などと印象づけていくのだ。

 いや、ひどいのは編集部だけではない。記事に登場する専門家のコメントもひどい。

「我々は6年半かかって彼に矯正教育を施したわけですが、関東医療少年院を出てから十年間は成功していたのです。再犯することなく、賠償金を支払い、年に一回報告を兼ねて遺族に謝罪の手紙を書いていた。
 だけど社会の強い逆風の中で疲れてしまったんでしょう。彼は幻冬舎にのせられるようにして手記を出版してしまった。それによってこれまでの更正の道のりが台無しになりました。彼は(パリ人肉事件の)佐川一政氏を師として異端の世界で生きることを決めてしまったのかもしれません」(Aの更正に取り組んだ関東医療少年院の杉本研士元院長)

「今回の文春に対するヒステリックな対応も同様です。こうした行動から少年院での矯正教育が不十分であり、退院後も、専門家が継続的に支援を続ける必要があったと思います」(多くの犯罪者の心理鑑定を手掛けてきたという「こころぎふ臨床心理センター」代表の長谷川博一氏)

「手記出版以降の振る舞いで、医療少年院での『育て直し』は、一般社会に出たら効果がなかったことが明らかになりました」(犯罪者の矯正教育に詳しい五十嵐二葉弁護士)

「彼を犯行に至らしめた性的サディズムは矯正教育によって治療できたのかもしれません。ただ酒鬼薔薇聖斗の犯行声明文などの異常なまでの表現欲と自己顕示欲という病は、全く治っていないと言えます」(犯罪学が専門の小宮信夫立正大学教授)

 そろいもそろって、手記を出版したことをもって、更正していないと断じるのだ。たしかにAが手記を発表したことで、遺族感情が傷つけられたなど、大きな批判が巻き起こった。しかし、手記を出版することは犯罪ではない。

 あげくは「異常なまでの表現欲と自己顕示欲という病は、全く治ってない」という指摘である。

 まるで、表現欲そのものが犯罪みたいに書いているが、それを言うなら文藝春秋で書いてる作家はどうなるのか。自己顕示欲が罪なら、「週刊文春」で本を出してる作家も、テレビに出ている芸能人もみんな犯罪者だろう。炎上ツイートしまくりの百田尚樹センセイや巻頭の原色美女図鑑でポーズをきめている女優さんに「センセイ、その異常なまでの表現欲と自己顕示欲、ヤバいですよ。犯罪につながりますよ」とご注進してあげてはどうか。

「文春」もAが手記『絶歌』を出版したことを理由に「純粋な私人であるとは、とても言えないのではないか」などと言っているが、『絶歌』出版前から、この19年のあいだ、「文春」はじめ週刊誌各誌はたびたび、Aの近況を記事にしてきた。Aを題材にしたノンフィクション、フィクションと、たくさんの本も出版してきた。

 こうした過剰な報道がAの居場所を奪い、更正の機会をつぶす要因のひとつとなったことはまちがいないだろう。

 手記にしても、たまたまAが自らアプローチしたのが幻冬舎の見城徹氏で、出版したのが太田出版だったというだけで、Aに手記を出させようとアプローチを試みていた出版社はほかにもあるし、幻冬舎より前からAとコンタクトをとっていた記者もいる。

 もともとコミュニケーションに苦手意識のあるAが、犯罪者や異物を排除しようという空気がどんどん強まる社会のなかで、犯罪者の過去をもちながら、誰かと関係を結びはたらくことは至難の業だ。

 そうして行き場を失ったAが、最後に行き着いたのが手記の出版だった。表現することが、最後の居場所、唯一の生きる術だったのだ。生きる術であり、更正の手段でもあったろう。

 それにしても恐ろしいのは、このような記者の単なる被害妄想で書かれた記事によって、Aが更正していないという印象操作があたかも事実のように語られ、さらなる厳罰化が叫ばれることだ。

 少年事件の半数近くが5年以内に再犯を犯しているということを考えれば、事件から19 年再犯を犯しておらず、さらに遺族への謝罪の手紙、そして賠償金の支払いも定期的にしていたという意味では、十分に更正しているといって差し支えない。精神鑑定の性的サディズム傾向が事実なら、むしろ矯正プログラムが効果があったと考えるべきだろう。

「文春」はこの記事で、繰り返し「果して「元少年A」は本当に更正しているのか」という大義名分を叫んでいるが、その更正の機会を阻んでいるのは、当の「文春」ではないか。

 Aがアパートを借りた、バスに乗った、家で通販を受け取った、電車に乗って都心に出かけた、近くに公園がある、公園では子どもが遊んでいる……などと、ただの日常生活を執拗に暴いていく。そこに貫かれているのは、一度犯罪を犯した者が、アパートを借り、電車に乗り、雑踏に紛れ道を歩くことすら、許さないという姿勢だ。

 実際、今回の「文春」のグラビア写真をもとに、さっそくネットではAの住んでいる場所や最寄り駅が特定されている。Aの居場所を奪い更正の機会をつぶしているのは「文春」のほうだ。

 少年Aの事件からの19年を冷静に分析するなら、「思春期の性的サディズムは矯正可能である」「少年Aほどの重大な犯罪を犯しても再犯を犯さないよう更正できる」「ただし過剰な報道は社会復帰の妨げになる」というべきだろう。

「Aがどんな顔をしているかわかって安心した」「ありがとうセンテンススプリング!」などと、「文春」を讃える声がネットにはあふれているが、本当に恐ろしいのはAが近くに生活していることじゃない。Aを排除する社会のほうだろう。
(酒井まど)

最終更新:2016.02.26 02:29

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