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瀬戸内寂聴「殺したがるばか」発言の何が問題なのか?“被害者感情”を錦の御旗にした死刑・厳罰化要求の危うさ

 だが、私たちは凶悪事件を憎み、犯罪被害者やその遺族に同情を感じるその感情の動きとは別のところで、国家のあり方として、死刑制度がありかなしかを冷静に考えるべきではないのか。さらに、「死刑」はほんとうにすべての被害者遺族が望んでいるものなのか。そして、その結果はほんとうに被害者遺族を救うのか、ということも考える必要がある。

 フランスの作家、アルベール・カミュは「ギロチン」と題した論考のなかで、農家の一家族を子供もろとも殺し、アルジェリアの首都・アルジェで死刑の宣言を受けた殺人犯の処刑の現場を見に行った、自身の父親の話をしている。この犯罪を憎み、殺人犯に激しい怒りを見せていた父親は、しかし、処刑場から帰ると、しばらく寝台に横になり、突然、吐き始めたという。

〈虐殺された子供たちのことを想い浮かべるかわりに、父はいまや、首を断ち切るために台のうえに無理矢理に抑えつけられた、そのひくひく動く肉体のことしか思い浮かべられなくなっていたのだ。
 死刑というこの儀式ばった行為は、犯罪にたいする単純で実直なひとりの男の怒りをも鎮めてしまうほどに、また、その男がなんどとなく正当なものとみなしていた刑罰も、結局のところ、彼の胸をむかつかせるといった効果以外のものはなにも生まなかったほどに、まさにおぞましい行為であると信じないわけにはいかない。〉

 死刑は、犯罪を憎んだ実直な父親を、嘔吐させるだけのことしかなさない。であれば、その裁きは、社会にいかなる善良もたらすというのか。カミュはこう続けている。

〈その裁きが犯罪に劣らず非道なものであり、この新たなる殺人行為は、社会集団に加えられた攻撃を償うどころか、最初の殺人行為に新しい汚点を付け加えるものであることは明白である。このことがまさに真実である証拠に、誰も直接にはこの儀式について語ろうとはしないのだ。〉(『カミュ全集』新潮社/山崎庸一郎・訳、原文初出1957年)

 犯罪被害者やその遺族を救済し、社会がフォローアップする仕組みは絶対に必要だ。しかし、それは犯人を死刑に処し、厳罰化を進めることではない。
(エンジョウトオル)

最終更新:2017.11.24 07:26

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