ベッキー『金スマ』謝罪はおかしい! 不倫は本当に「大きな罪」なのか? 内面化されていく道徳ファシズムの恐怖

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ベッキー 公式ブログより


 ゲスの極み乙女。の川谷絵音との不倫騒動で休業に追い込まれて以来、3カ月ぶりにテレビ出演をしたベッキー。13日放送の『中居正広の金曜日のスマイルたちへ』(TBS)で中居のインタビューに心情を語った。「復帰は早い」「信用できない」などの非難の声も相変わらずあるが、不倫や会見の嘘を率直に認めたうえ、川谷の元妻にひたすら謝罪したことで、今回はマスコミやSNS上の反応などベッキーに好意的なものも多くなっている。

 しかし、本サイトは正直、この決着には違和感がある。年明けの不倫発覚以来、本サイトでは一貫してベッキーを擁護してきた。むしろ、たかだか不倫をしただけの芸能人を犯罪者扱いし、袋叩きにする芸能マスコミやネット世論の過剰な道徳主義を徹底的に批判してきた。

 だが、今回の『金スマ』を観ていて、今度はベッキーに対して、疑問と怒りを抑えきれなくなった。

 断っておくが、オリエンタルラジオの中田敦彦や一部のネット民のように、ベッキーが「復帰のために計算して演技している」と考えたわけではないし、「あざとい」とか「嘘くさい」とか言いたいわけでもない。むしろ逆だ。

 ベッキーはこの放送で、「罪の大きさを知った」「最低なことをしてしまった」「愚かでした」「心を入れ替えました」と涙ながらに反省の言葉を何度も口にした。こうした言葉が、たんにテレビ復帰のためにその場しのぎで口にしたものなら別にかまわない。演技や嘘なら、わざわざ話を蒸し返そうとも思わない。

 でも、ベッキーはこの日の番組で、本気で反省しているように見えた。そして、「奥様の気持ちを知って、罪の大きさを知って」、川谷のことを「好きじゃなくなった」と言った。

 それはないだろう、ベッキー。なぜ、恋をした相手がたまたま結婚をしていたというだけで、「愚か」「最低」「大きな罪」などと反省しなければいけないのか。相手の妻にそこまで謝罪しなければならないのか。自分の気持ちを抑圧しなければならないのか。

 世間は「奥さんを傷つけた」などと言うが、それは相手が独身で恋人がいる場合だって起こりうる話だ。だが、その場合は絶対にこんなに大きな問題にはなっていない。明らかに相手が結婚しているから「罪」だとされ、ベッキーも今、大仰な反省の弁を並べているのだ。

 しかし、結婚ってそんなにエライのか。結婚について「たった1人の異性に排他的かつ独占的に自分の身体を性的に使用する権利を生涯にわたって譲渡すること」とその隷属的な本質を指摘し、「セックスの相手をおクニに登録して契約を結ぶ必要なんてない」と述べたのは、社会学者の上野千鶴子だったが、実際、結婚制度なんて、共同体が人間の性と生殖を管理するためにつくり出した便宜上のシステムにすぎない。

 近代国家では、この結婚制度に法の保護と経済的特権を与えることで、性の秩序を維持し、子づくりさせ、育児に責任をもたせようとしてきたが、いまや多くの先進国でそれはまったく機能しなくなっている。むしろ結婚制度が疎外と貧困、少子化を生み出しているという側面もあるし、フランスでは、婚姻率が日本の半分程度にまで低下しながら、逆に出生率はアップしている。

 いや、制度の是非は別にしても、少なくとも人には結婚の法的特権を享受する権利も、その管理に背を向けて自由に性を謳歌する権利もあるはずだ。ましてや、ベッキーは独身で、制度からなんの特権も与えられていないし、保護も受けていない。相手が制度の内側にいるというだけで、なぜその相手に恋愛感情を持ったこと自体を「罪」だと考えなければならないのか。ここまでくると、道徳ファシズムによる暴力的抑圧としか言いようがない。

 ところが、ベッキーは今回、その道徳ファシズムに屈したというより、それを完全に内面化してしまっていた。前述したように、嘘や演技ではなく、自分の言葉で不倫を「愚か」「最低」「大きな罪」と語っていた。これは本当に最悪だと思う。

 ドイツの社会心理学者、哲学者であるエーリッヒ・フロムは『自由からの逃走』の中で、ナチズムはヒトラーが大衆を力ずくで支配した結果でなく、むしろ大衆がその強制を内面化し、自発的に服従することによって実現されたと指摘した。そして、その内面化、内的権威をつくりだすメカニズムをこう分析した。

〈近代史が経過するうちに、教会の権威は国家の権威に、国家の権威は良心の権威に交替し、現代においては良心の権威は、同調の道具としての、常識や世論という匿名の権威に交替した。われわれは古い明らさまな形の権威から自分を解放したので、新しい権威の餌食となっていることに気がつかない。われわれはみずから意志する個人であるというまぼろしのもとに生きる自動人形となっている。〉
〈この特殊なメカニズムは、現代社会において、大部分の正常なひとびとのとっている解決方法である。簡単にいえば、個人が自分自身であることをやめるのである。すなわち、かれは文化的な鋳型によってあたえられるパースナリティを、完全に受け入れる。そして他のすべてのひとびととまったく同じような、また他のひとびとがかれに期待するような状態になりきってしまう。「私」と外界との矛盾は消失し、それと同時に、孤独や無力を怖れる意識も消える。〉

 フロムの警告したことが今、まさにそのまま起きている。10年前ならただの笑い話でしかなかった不倫や未成年の飲酒、喫煙が重大犯罪のように糾弾されるようになったのは、国家やメディア、一部の道徳主義者が強制する通俗的な道徳を多くの人が内面化し、内的良心となって広がっているからだ。

 彼らは小さな犯罪やどうということのない不祥事に“悪の根源”を見出し、それを叩くことでこの内的良心を満足させ、強化していく。そのことによって、さらに糾弾の声は増幅し、大きくなっていく。

 そして、この道徳ファシズムの過程でエバンジェリストの役割を演じているのが芸能人だ。芸能人はスキャンダルや炎上で、大衆に道徳の内面化の契機を与え、自ら道徳を大きな声で叫ぶことでそのイデオロギーを広めていく。些細な犯罪や不祥事に「許せないこと」と憤り、自らの炎上には心からの反省を見せることで、法律や道徳規範を強固にし、震災が起きれば、大仰に同情し、活動する前に必ず「やはり僕らにできることといえば、歌を通じて、みなさんを勇気付けることしかない」などとエクスキューズを付け加えることで、過剰な自粛をうながしていく。

 そういう意味では、今回のベッキーは、その道徳ファシズムの最大のスピーカー役を演じてしまったのだ。不倫イコール罪という道徳を内面化し、自分の恋を自ら「大きな罪」と言ったことで、不倫は絶対に許されないというイデオロギーはさらに強化され、結婚制度そのものへの疑問など挟む余地も無くなってしまった。

 もちろん、過剰適応的な傾向が強く、自分はいい子だと自分に言い聞かせるように生きてきたベッキーに、制度への反逆を期待するのは端から無理だろうし、この状況で不倫=悪を内面化してしまったのもわからなくはない。

 しかし、この道徳ファシズムの行き着く先はたんに不倫の問題だけではない。とにかくルールには問答無用で従うべきだ、ルールそのものを疑ってはならない、ルールを破ったものは徹底的に糾弾される。そういう社会ができあがりつつある。

 そう考えると、やはりベッキーの責任は重い。
(酒井まど)

最終更新:2016.05.15 11:42

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