中川政務官以外にも路チュー目撃多数! 国会議員同士のキモすぎる恋愛事件簿

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農林水産省ホームページより


「週刊新潮」(新潮社)3月12日号に、中川郁子農林水産政務官と門博文衆院議員の路上での“不倫キス写真”が掲載された。中川は2009年に急逝した中川昭一元財務・金融相の未亡人で、12年には夫の地盤を継ぎ衆院議員に初当選、現在2期目を務める。

 今回の一件では当事者二人がともに酒席での軽率な行動だと認めているにもかかわらず、批判のほとんどは妻子持ちの門ではなく、未亡人の中川に集中している。政務官のポストにある中川に対して門はヒラ議員ということもあるのだろうが、それ以上に“女”を主役にしたほうがニュースバリューがあるというメディア側の判断が働いているものと思われる。

 政治家をめぐる恋愛スキャンダルは昔から何度となく繰り返されてきたが、最近ではその様相も変わりつつあるようだ。この記事では、スキャンダルのうち国会議員同士の色恋沙汰に絞って、過去の事例を振り返りながらその変化を見てみたい。

■泥酔大臣が起こした“国会内キス事件”

 じつはいまから67年前にも、“政治家と酒とキス”をめぐり騒動が起きている。しかもこのときの主役は大蔵大臣(いまの財務大臣)という内閣の重職で、現場が路上どころか国会内というから、中川と門の一件がかわいく思えるほどだ。

 騒動が起こったのは終戦直後の1948年12月。ときの首相は、その10月に約1年半ぶりに政権に返り咲いた民主自由党(民自党)の吉田茂だ。吉田は第2次内閣を組むにあたり、蔵相に泉山三六を起用した。泉山は三井銀行の出身で、前年に衆院議員になったばかりの無名の新人だった。しかも吉田がそれまで泉山に会ったことは皆無に等しく、その素性もほとんど知らなかったらしい。いざフタを開けてみれば、泉山は肝心の財政・経済には疎く、答弁も下手で「泉山節」と揶揄される始末だった。民自党内では早くから「泉山は吉田の試行錯誤人事だ」との声もあがっていたという(戸川猪佐武『昭和の宰相(第4巻) 吉田茂と復興への選択』講談社)。そこへ来て騒動が持ち上がった。

 衆議院本会議の行なわれていた12月13日午後、泉山は答弁を終えたのちGHQに赴いた。彼が国会に戻ったのは午後6時すぎ。このとき本会議は休憩中で、閣僚たちは予算案をめぐる与野党間の折衝がほぼかたをついて大臣食堂で祝杯をあげていたという。いまでは考えられないが、当時は国会内の食堂で酒が出ることがあったのだ。泉山も帰るなり飲んでいると、秘書官がやって来て、大蔵委員会の宴会が始まっていると伝えられた。そこで会場の参議院食堂に移動する。

 大蔵委員会の宴会で、泉山は野党・民主党(現在の民主党とは別の党)所属の山下春江と隣り合わせになる。山下は女性に参政権が認められて初めての総選挙(46年)で当選した女性議員のひとりだった。泉山ののちの回想によれば、山下とは初対面ながら打ち解けて盃を交わしているうちに、二人きりで連れ立って席を立ったという。その後の自分の行動を、泉山は次のように書いている。

《どうして私が山下さんと一緒に出かけるようになったか、その点はどうも月と尾花で、無粋には割り切れない。兎も角、議長室の前を通って、広い廊下をアベックして、階段のところまで行き、そこから引返したには相違ない。山下さんは戻ってから別席で誰かと話しているようであった。私は間もなく立って、[引用者注――大臣室の]大臣席へ帰った》(泉山間窓[三六]『トラ大臣になるまで 余が半生の想ひ出』新紀元社/原文の旧漢字、促音の「つ」表記は改めた)

 引用文中に出てくる「月と尾花」とは、「月は尾花と寝たと言う、尾花は月と寝ぬと言う」という小唄の一節からとったものらしいが(尾花とはススキのこと)、それほど両者の事後の言い分は異なった。というか、泉山が「大臣室へ帰ってから、私には朦朧として記憶がない」と書いていることから察するに、彼はこのとき自分が何をしたのかほとんど覚えていないと言ったほうが正しい。

 翌日の泉山に対する衆院の懲罰委員会での山下の発言に従えば、このとき両者のあいだでは以下のようなできごとがあったという。宴会で酔いの回った泉山は、初めは食堂で働く女性にちょっかいをかけていたが、やがて山下に対し「こんなところはつまらないから、ほかに行こう」などと言って、力づくで食堂の外に連れ出す。そこで山下は泉山から抱きつかれたうえキスを迫られ、首を振って必死に抵抗するうち左あごを噛みつかれた。たまらず彼女は泉山を殴りつけると、相手の手がゆるんだ瞬間に逃げ出したという。

 このあとも泉山は、廊下ですれ違った別の女性議員の手をしばらく握ったまま離さなかったりと狼藉を働いたらしい。先述のとおり泉山はいったん大臣室に戻り、広川弘禅らに無理矢理に起こされたが、すっかり酔いつぶれて目を覚まさなかったという。午後9時前には本会議が再開され、泉山は農林大臣の周東英雄に抱きかかえられながら廊下に出た。それでも意識は朦朧としたまま、議場脇の廊下のソファで眠り込んでしまう。

 本会議では、出席しているべき蔵相がいないことに野党議員らが気づき騒ぎ始める。なかなか騒ぎが収まらないので2度ほど休憩がとられたのち、あらためて会議が再開された。このとき、社会党の女性議員と被害を受けた山下があいついで登壇して泉山の所業を告発、閉会の前には翌14日に泉山に対し懲罰委員会を行なうことが議決される。

 この間、泉山は一向に酔いの覚める気配がないので、やむをえない要件でGHQに行くと称して国会の外に連れ出された。車で皇居の濠端を3周し、さらに官邸、自宅と転々としたが、泉山があまりに怒るので、やむなく国会に引き返したという。国会に戻るとすぐ医務室に担ぎ込まれ、注射をして寝かしつけられる。それでも気が咎めたのか、こうしてはいられないと怒鳴って大臣室に帰ったらしい。泉山が正気に戻ったのはその日深夜のことで、ついに本会議に出ることはなかった。

 泉山は翌日の懲罰委員会にも出席せず、結局蔵相、議員ともに辞任している。本来なら首相である吉田の任命責任が問われてもおかしくないところだが、そうした声はほとんど上がらなかったようだ。泉山の騒動の10日後に吉田は衆院を解散、翌49年1月に行なわれた総選挙で民自党は単独で衆院の議席の絶対多数を獲得し、以後、吉田政権は5年以上続くことになる。

 一方、泉山はこの一件で「トラ大臣」としてすっかり知名度を上げ、このあと50年の参院選挙に出馬し当選、2期務めている。近年、女優の浅香光代が過去に某大物政治家と不倫関係にあったことを告白した際、浅香にその政治家を紹介した人物として泉山の名があげられた。そもそもは例の騒動のあと、浅香が「男がキスしたってどうってことないじゃないか」と泉山を擁護したのがきっかけだったという。セクハラという言葉がまだなかった時代、酒の上でのことだし大目に見てやろうという人は浅香にかぎらずけっして少なくなかったのだろう。

■“だまされた”女性議員のほうが叩かれた政界不倫スキャンダル

 泉山三六に対する衆院の懲罰委員会に出席した議員のなかには、民主党の新人議員・園田直の姿もあった。園田が労働農民党の議員・松谷天光光と大恋愛の末に結婚し、国会議事堂にちなんで「白亜の恋」とスキャンダラスに騒がれたのはその翌年、49年のことである。

 松谷は先の山下春江と同じく46年の総選挙で初当選した女性議員のひとりだ。園田が初当選したのはその翌年の総選挙であり、まもなくして参加した青年議員連盟で松谷と出会った。陸軍軍人時代の戦友たちがほとんど田舎の貧乏人であった園田は、政治はこういう人たちのためにこそあるべきだと考えていた。松谷はそんな信条を持つ園田に惹かれていく。

 やがて二人のあいだで結婚しようという話になったとき、園田は、じつは一度結婚したことがあり男の子が一人いると打ち明けた。それでも男の子一人ぐらいだったら何とかなるだろうと、松谷は父に話をするも反対される。松谷家には男子がおらず、彼女が跡取りと決められていたため、園田が養子に入るのでなければ認められないというのだ。彼も長男なのでそれは無理な話だった。

 父はまた、園田に子供がいると知って、そのあたりをちゃんと調べてみると言い出した。これを松谷から聞いた園田は慌て出し、結婚を急いだ。できれば父の許しを待ちたかった松谷だが、49年12月10日の早朝、駆け落ち同然に出奔した。二人はまず松谷の母親の墓参りをするため多磨霊園を訪れる。そこにはなぜか新聞記者が待ち受けており、写真に撮られてしまう。その後、場所を移り、園田の同志的存在だった中曽根康弘(のちの首相)らを立会人に神前式の結婚式を行なった。

 それにしても園田はなぜ結婚を急いだのか。その理由に松谷は、群馬・伊香保への新婚旅行から東京に戻り、新居となる議員会館に赴いたとき気づくことになる。そこには友人の女性記者が待っており、園田にはじつは子供が5人いると教えてくれた。松谷はさっそく園田を問い詰める。ここでようやく彼はすべてを明かした。先に聞いていた男の子は、軍隊に入る前に結婚した最初の妻との子供で、じつはその後再婚してさらに4人の子供を儲けていたのだ。その2番目の妻は、園田が戦争末期に特攻隊として出撃する前に籍を抜いたものの、まだ彼の熊本の実家で子供たちとともに暮らしているという。彼女の父からきちんと調べると言われたとき、園田が慌てたのはそのためだ。母の墓前に新聞記者がいたのも、園田が事前に知らせておいたからで、そこには結婚を世間に公表して既成事実にしてしまおうという思惑があった。

 園田はすっかり白状すると、5人も子供がいると知れば君は自分のところに来なかっただろうと開き直ってしまった。これに松谷は《もう園田を責めてもしかたがない。自分がしでかしたことなのだから、自分で責任を取るよりしょうがない。決して引き返すまい。自分に負けるものか》と覚悟を決める(園田天光光『生きがい上手』たちばな出版)。不倫の末の結婚だっただけにマスコミや世間ではスキャンダラスに騒がれ、すでに松谷が妊娠していたこともあり、園田より彼女のほうが強く批判された。同じ女性議員の市川房枝や作家・平林たい子も「無節操だ」と攻撃し、社会党の堤ツルヨは松谷の妊娠を「厳粛なる事実」と言って流行語となった。

 松谷の父も結婚を認めておらず、彼女は戸籍上はまだ松谷家の人間だった。それが転機を迎えるのは、彼女が政治活動のための金策と育児、それに園田の性懲りもない女性問題に憔悴して実家に戻ったときだった。別居は長引き、園田の親分格だった衆院議員の河野一郎など政財界の大物たちが心配して松谷家を訪ね、父親に対し彼女に帰るよう言ってくれと説得する。これを受けて父は松谷に、自分が後悔しないで済む道をとりなさいと告げた。色々と考えた末に、彼女は夫のもとに帰ることに決める。すると父は初めて戸籍謄本を渡し、園田の籍に入ることを認めてくれたのだった。

 これと前後して松谷は52年・53年・55年・58年と立て続けに総選挙で落選していた。半年ぶりに帰宅した彼女は夫を支えることに徹しようと決意し、「松谷天光光」の名刺を全部捨てたという。園田は所属政党の離合集散にともない複数の党を渡り歩き、最終的に自民党に合流する。67年には第2次佐藤栄作内閣の厚生大臣となり、水俣病とイタイイタイ病を公害病に認定した。78年には福田赳夫内閣の外相として日中平和友好条約交渉を妥結している。

 この間、選挙中は、全国を応援に飛びまわる夫に代わって天光光が地元・熊本での選挙運動を取り仕切った。その手腕を買って、園田が亡くなって2年後、86年の総選挙では一部の支援者らは当然のように彼女を後継者に担ぎ出した。一方で園田の前妻の息子である博之を担ぐグループもあったため、天光光はもともとの選挙区である東京に戻ることも考えたが、熊本の支援者らはそれを許してくれなかった。結局、義理の親子が同じ選挙区で争い、トップ当選した博之に対し天光光は落選する。このあと彼女が議員となることはなかったが、政治とはさまざまな団体の役員を務めながらかかわり続けた。エッセイや歌集など著書も多く、晩年にはその波瀾の人生があらためて注目されながら、今年1月29日、96歳で亡くなった。

■スクープがあいつぐ女性議員のスキャンダル

 日本の大手新聞をはじめ正統メディアでは長らく「政治家の臍から下のことは書かない」が不文律となっていた。だが、それも時代の流れのなかで変化していく。大きなエポックとなったのは、89年6月に週刊誌の「サンデー毎日」(毎日新聞社)が、時の首相・宇野宗佑と愛人関係にあったという元芸者へのインタビュー記事を掲載し、大々的にキャンペーン記事を張ったときだ。折しも翌月には参議院選挙が実施され、自民党は議席の過半数を大きく割る大敗北を喫した。宇野はその責任をとって首相を辞任している。ちなみに性的嫌がらせを意味するセクシャル・ハラスメント(セクハラ)の語が一般に広まり、新語・流行語大賞に選ばれたのもこの年のことである。

 それ以来、政治家にとって不倫やセクハラなど異性をめぐるスキャンダルは大きなダメージとなった。96年には衆院議員・船田元に元NHKアナウンサーで当時参院議員だった畑恵(いずれも当時新進党に所属、まもなくして自民党に移る)との不倫疑惑が持ち上がる。疑惑はやがて事実と判明し、当時のベストセラー小説のタイトルからとって「政界失楽園」などと騒がれた。99年に二人は結婚するが、妻子を捨てた船田への風当たりは強く、翌年の総選挙では落選している。なお、このとき同選挙区で当選したのは民主党の新人女性候補・水島広子だった。

 船田は92年に宮澤改造内閣に経済企画庁長官として戦後最年少(当時)の39歳で入閣したこともあり、将来の首相候補との呼び声も高かった。だが、2009年の総選挙で2度目の落選を経験(その後12年の総選挙で復活)、権力の座からは遠のいた。皮肉というべきか、船田が自民党復帰後にその派閥の結成に奔走した山崎拓もまた、一時は首相の座に近づきながら女性スキャンダルが仇となって失墜している。

 これらはいずれも男性大物政治家のスキャンダルで、船田をのぞけばその相手は政治家ではない。このあと2000年代半ば以降になると、女性政治家の政界内での恋愛ネタが週刊誌を中心に騒がれることが増えていく。なかでも野田聖子と佐藤ゆかりにはたびたびスキャンダルが持ち上がっている。周知のとおり両者には、小泉政権下の05年の郵政解散選挙で野田が郵政民営化反対を訴えたのに対し、佐藤はその選挙区に“刺客”として送りこまれて争ったという因縁がある。

 酒豪で知られる野田はかつて若手国会議員との“泥酔チュー”を写真週刊誌にすっぱ抜かれたことがある。また鶴保庸介参院議員との事実婚(07年に解消し現在は別の男性と婚姻)や不妊治療なども話題を呼んだ。一方で佐藤も05年の総選挙のさなかに過去の不倫疑惑が報じられたほか、当選後も「週刊新潮」に江崎洋一郎衆院議員との「不倫デート」という体でスクープ記事が掲載され騒動に発展している。

 不倫ではないが、自民党の参院議員の丸川珠代も08年に同じ党の衆院議員・大塚拓との交際を「週刊文春」(文藝春秋)に報じられている。健全な恋愛関係だったにもかかわらずこのケースがスクープとして扱われたのは、やはり局アナ出身の丸川が“美人”として知名度があったからだろう。

 もっとも、女性議員の場合、利権をめぐる癒着や金銭スキャンダルが少ない分、選挙時には対立候補の陣営から根も葉もない男女関係のスキャンダルを流されることも珍しくはなかったらしい。92年の参院選に無所属で出馬して落選、翌年の衆院選で初当選した高市早苗(その後自民党に入り現在は総務相)も、選挙終盤ともなると地元の有力者や大物国会議員の愛人であるとの怪文書が選挙区にばら撒かれたという。当選してからも、中年の国会議員から「オッパイでかいね」などとセクハラ発言をされるのは日常茶飯事、新人時代には野田聖子と一緒に国会のエレベーターに乗っていたとき、男性議員から「国会はおまえらみたいなチンコロ姐ちゃんが来るところじゃないんだ」と暴言を吐かれたこともあったとか(「婦人公論」97年3月号/中央公論社)。

 女性議員をめぐる状況はその後どれだけ改まったのだろうか。今回の中川郁子と門博文の一件にせよ、政治家同士の恋愛スキャンダルで女性に批判が集まりがちなところを見ると、園田直と松谷天光光の「白亜の恋」の時代からほとんど変わっていないようにも思える。他方、“酔った勢いのキス”でも、自民党所属の参院議員で日本スケート連盟会長の橋本聖子が昨年のソチ五輪後、フィギュアスケート代表だった高橋大輔(彼は政治家ではないが)にキスを迫ったという一件などは、かつての泉山三六の事件とは男女の立場が完全に逆転しており、橋本によるセクハラ・パワハラだという批判の声も上がった。いや、ひょっとするとこの一件は、政界で女性が出世するには、男並みにセクハラでもやれるぐらいでないと無理だという事実を示唆しているにすぎないのではないか。

 前出の高市早苗は政治家として売り出し中の頃、“オヤジ殺し”として知られた。最初の選挙で落選した直後には、雑誌で対談相手のタレント・山城新伍に、高市からその世間的なイメージにふさわしからぬハートマーク入りの手紙をもらったことを暴露されている。高市はそれを受けて「でもね、誰にでもハートのマークを書くというわけじゃないの」と言ってのけた(「週刊現代」92年9月19日号/講談社)。彼女のこの言葉からは、日本ではときには女であることを武器にしつつオヤジに媚びないことには権力などつかめない、という厳粛たる事実がうかがえまいか。オヤジに取り入りながら出世してきた女性政治家たちが、セクハラにおよばないまでも精神的にオヤジ化するのは当然のことなのかもしれない。
(近藤正高)

最終更新:2017.12.19 10:19

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