『アナと雪の女王』は原作レイプなのか!? ディズニー原作改変の功罪

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原作“ありのまま”はムリだった!?(画像はディズニー公式サイトより)


 ディズニー史上、歴代No.1に輝く大ヒットを記録した『アナと雪の女王』。主題歌「Let it go」の歌詞にも出てくる「ありのままで」は2014ユーキャン新語・流行語大賞のトップテンに選ばれるなど、まさに今年1年を代表する作品となった。しかし、一部ではこの作品に対して、疑問の声もあがっているようだ。なぜなら、「原案」となったアンデルセンの『雪の女王』とはあまりにも違うから。その点を指摘しているのが、『『アナと雪の女王』の光と影』(叶精二/七つ森書館)だ。

 そもそもディズニーには原作改変の歴史がある。ディズニーといえば、アンデルセンやグリム童話など、数々の作品をもとに、オリジナルのアレンジを施してきた。同書によると、たとえば、ルイス・キャロルの『不思議の国のアリス』『鏡の国のアリス』を題材にした『ふしぎの国のアリス』。原作は「綴りや文法を逆手にとった言葉遊びや謎解き、不条理で一貫性のない物語、不可解で不気味なキャラクター」などが魅力だったが、ディズニーでアニメ化されたときにはチシャ猫もカラフルでポップなキャラになり、ティーパーティの様子もにぎやかなものになっていた。

 また、イギリスの児童文学『クマのプーさん』は、もともと作者のミルンが息子・ロビンのために彼をモチーフにして書いたもの。しかし、ロビンのボブカットはディズニーの『くまのプーさん』ではアメリカ少年風の短髪になり、台詞のアクセントもアメリカ中西部に変更。そのため「新聞紙上で抗議運動が起きた結果、ロビンの声をイギリス南部のアクセントで録音し直し」する事態にまでなったという。こういった騒動に対し、息子のロビンは後年自伝の中で「原作のシェパードの挿絵を支持する人たちが、ディズニーを支持する人たちと争うようなことにでもなったら残念なことだ」と、わざわざファンに自重を促したほど。

 そして、ディズニーの『白雪姫』では、「後日談の婚礼で王妃が赤く焼けた鉄の靴で踊らされる」といった残酷な描写が軒並みカットされているのに加え、グリム童話の『白雪姫』と決定的に違うのは、白雪姫が「リンゴを吐き出して蘇生」するのではなく、「王子のキスで蘇生」して終わること。アンデルセンの『人魚姫』だって、原作は人魚姫が王子との恋に破れ、泡となって消えるという悲恋の物語なのだが『リトル・マーメイド』では、「深海世界征服をたくらむ魔女を王子と姫の姉たちが力を合わせて退治し、恋愛成就のハッピーエンド」に。王子様と結ばれることこそがハッピーエンドであるディズニー作品では、リンゴを吐き出して生き返るとか、叶わぬ恋といった夢のない現実的な展開なんて求めていないのだ。

 このように、ディズニー作品ではどんな原作も“勧善懲悪”そして“ヒロインは王子さまと結ばれる”というステレオタイプのハッピーエンドへと改変されてしまうため、作品の根底にある地域性、歴史観、人種差別などの問題といったものが排除され、無菌化=“ディズニー化”していると批判されてきた。

 そんなディズニー作品に対しては、宮崎駿や高畑勲も以下のような批判を口にしているという。

「ディズニーの作品で一番嫌なのは、僕は入口と出口が同じだと思うんですよね。なんか『ああ、楽しかったな』って出てくるんですよ。入口と同じように出口も敷居が低くて、同じように間口が広いんですよ。ディズニーのヒューマニズムの、あの偽物加減とかね、ああいうもんの作りものくささみたいなのがね。だから、やっぱりディズニーの最高の仕事というのはディズニーランドだったんだなっていうふうに思います」(『Cut』1990年1月号/ロッキング・オン)

「ディズニーが好きじゃないのは、ひとつには、アニメで何でもつかまえることができるという楽観主義。もうひとつは、観客の想像力を冒険させない、まったく日常的世界と同じ次元の表現であるからです。新しい世界がひろがるのではないんですね」(『月刊アニメージュ』1985年2月号/徳間書店)

 では、『アナと雪の女王』も、これまでの『白雪姫』や『人魚姫』のような、“ディズニー化”がなされているのだろうか?

 まずは、原案となった『雪の女王』のあらすじを見てみよう。『雪の女王』は、主人公の少女・ゲルダと仲良しの少年・カイの物語だ。ある日、カイの心臓と目に悪魔の鏡の破片が刺さり、性格が急変。そのうえ、雪の女王に氷の宮殿へ連れ去られてしまったため、カイを助け出すためにゲルダは1人旅に出るというもの。この作品は7つのエピソードで構成された物語で、アンデルセンの童話の中では最も長い物語とされている。

 一方『アナと雪の女王』の主人公は、エルサとアナという王女姉妹。姉のエルサは、生まれつき触れたものすべてを凍らせる魔法の力を持っていたのだが、あるときその力で国中を凍りつかせ、自ら築いた氷の城に閉じこもってしまう。そんな姉を救いに行くアナだったが、エルサの魔法によって心臓を傷つけられ氷結し、一度は死に至る。しかし、エルサに芽生えた「真実の愛」によって氷はとけ、アナは無事生き返るというもの。

 著者の叶は『アナと雪の女王』と『雪の女王』は、時代設定や舞台以外で「二つの作品間に人物や物語など「基本的な設定」の共通項を見出すのは難しい」と指摘。それなのに「いつの間にか『雪の女王』が「原作」であるかのように扱われ」ており、「曖昧に同一視され、やがて一括りにされ」ることを危惧しているのだ。2つの作品は「タイトルもテーマも別の作品として相応に扱われるべき」もので、「オリジナルの『雪の女王』が影としてかき消されて良い筈はない」と熱く語っている。

 たしかに“雪の女王”“氷の宮殿”といったモチーフ、性格が急変してしまった友人を助けに旅に出る少女ゲルダと、突如魔力を使い出し姿を消した姉エルサを助けに旅に出る妹アナなど、いくつか共通点も見られるものの、ストーリーもキャラクター設定もかなりちがうものになっている。なかでも、タイトルにもなっている“雪の女王”のキャラクターが両作ではまったくちがう。『アナ雪』における雪の女王とは姉エルサのことであり、アナと雪の女王エルサの姉妹愛が物語のテーマのひとつとなっていることは、非常に大きな改変だ。叶が指摘するように、もはや別の作品といってもいい。

 というのも、アンデルセン版とディズニー版の“雪の女王”のちがいは、単にキャラ設定がちがうというレベルでなく、作品の根幹となるテーマそのもののちがいでもあるからだ。

 アンデルセンの“雪の女王”は「善でも悪でもなく人智を超えた神のような象徴的存在」「人間を退ける「厳冬」という季節そのもののイメージを形象化した存在」であるのに対し、『アナと雪の女王』で“雪の女王”たるエルサは「悩み苦しむ生身の人間」であり、「自然の猛威のごとき象徴性」はない。
 
 こうした改変について、叶は「映画からは人間と不条理な自然との対比、広大で無慈悲な世界の広さ、季節のうつろいといった詩情、様々な女性たちの連鎖や社会的成長といった詩情や寓意はほとんど感じられない」「心の問題で自然環境も政治問題もすべてクリアできてしまうわけで、確かに「シンプル」だ。」と手厳しい。

 実際、原作のもつ「詩情や寓意」は映画にするのは難しかったようで、ディズニーで『雪の女王』映画化の話は1939年頃からたびたび持ち上がっていたそうだが、なかなか実現に至らなかったのだという。しかし、それが長い試行錯誤を経て、単なる悪役として描かれることの多かった “雪の女王”というキャラクターを主人公とする新解釈にたどり着いたことで、『アナと雪の女王』が生まれ、そして大ヒットした。

 当初案では悪役だったという雪の女王エルサをアナという妹を持つ姉にし、その内面を描いたことで、共感を得た。このエルサの苦悩に心打たれ、作品に引き込まれたという人も多かったのではないか。

 神のような存在、畏怖すべき自然の象徴としてその内面が描かれることのなかった“雪の女王”を、生身の人間としてその内面の葛藤を描く。“厳冬”を人間を退ける絶対的な恐れの対象としてでなく、共生可能なものとして描く。これらの改変は、原作を単にシンプル化したわけでなく、その先を描いたといえないだろうか。

 たとえば、『アナ雪』には絶対的な“悪”は登場しない。エルサの魔力は封印すべき“悪”ではなく解放するべき個性であり、エルサの魔力による厳しい冬も忌むべき季節ではなくうつろう季節のひとつだ。また、ディズニーヒロインに幸せをもたらすはずの王子は悪役で、物語のクライマックスは冒険をともにした庶民男子との恋愛の成就でもなく、姉妹の和解だ。

 かつてのお約束だった“勧善懲悪”と“王子さまと結ばれてハッピーエンド”というディズニー映画を象徴する2つのポイントが、『アナと雪の女王』では完全にひっくり返されているのだ。これは、旧来の“ディズニー化”とはまったく異なるものといっていい。今後の“ディズニー化”のありようにも影響を及ぼす変化でもあるだろう。

 実は、今回はアンデルセンの『雪の女王』について「Story Inspired by(~に触発された物語)」という表記が使われ、日本語訳も「原作」ではなく「原案」となっている。ディズニー映画ではこれまでも改変の度合いによって「Based On(~に基づく)」「Adapted From(~の改作)」など使い分けられていたようだが、どんなに原作の設定を根本から変えていても日本では「原作」と訳されてきたという。この表記の違いを見ても、『アナと雪の女王』映画化には、相当な苦労があったことがわかるし、もはや「原作」とは呼べないと思えるほど、新たな作品に生まれ変わったという証拠ではないか。

 ただ、今回「原案」という形が取られたことには、もう1つ理由があるかもしれない。叶によると、実は『アナと雪の女王』には『雪の女王』以外にも参考にされたと思われる作品があるというのだ。それが、『雪の女王』から17年後に発表されたアンデルセンの『氷姫』と『雪だるま』。

『氷姫』の主人公である少年・ルーディは、幼い頃に両親を亡くした。その際、死の世界へと引き込もうとする氷姫にキスされるも奇跡的に生還し、大人になるのだが、結局、結婚式の前日に氷姫の2度目の口づけによって死に至る。そのストーリーは、幼い頃にエルサの魔法が当たり、2度目で氷の彫像と化したアナと重なるところがある。また、『氷姫』の外見は「雪のように白い長い髪と、青緑の着物とが、ひらひらひるがえって、深いスイスの湖の水のようにきらめきます」と書かれているのだが、それは氷の城を築いたあとのエルサに似ているではないか。

 一方、『雪だるま』は、屋敷の庭に作られた雪だるまが主人公なのだが、彼はどうしても屋敷の中にあるストーブが気になっていた。屋敷の犬に「ストーブのある部屋に行けばとけてなくなってしまう」と諫められても聞かず、まるで恋焦がれるように見つめ続ける雪だるま。やがて季節が変わり、雪だるまはとけて崩れてしまうのだが、その中からはストーブの火かき棒が出てくるという話なのだ。『アナと雪の女王』にも、オラフというエルサが作った雪だるまのキャラが出てくるが、彼は雪だるまなのに夏に憧れるという滑稽な特徴をもっている。オラフのモチーフは、まちがいなくストーブに恋焦がれるこの雪だるまだろう。

 たしかに、原作の扱い方は非常に難しい問題で、ディズニー以外でもたびたび議論になる。『アナ雪』には詩情が感じれられないと叶が指摘するように、たとえば宮崎アニメがもっているような不条理や豊穣さという点では、『アナ雪』は物足りないところもある。しかし、決して描かれることのなかった雪の女王の内面を描くという大きなアイデアは、少なくとも“原作レイプ”と呼ばれるような改悪ではないだろう。これほど多くの人に受け入れられたことを考えれば、改変に成功した例といえるかもしれない。続編となる最新短編映画『フローズン・フィーバー(原題)』が来年の4月25日公開予定という情報も発表されるなど、まだまだアナ雪ブームは終わりそうにない。

『アナと雪の女王』は原作レイプなのか、否か。アンデルセンの『雪の女王』『氷姫』『雪だるま』と読み比べてみるのも一興かもしれない。
(島原らん)

最終更新:2014.12.24 07:40

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