C.R.A.C野間易通インタビュー(前編)

反ヘイト集団“しばき隊”は正義なのか? 首謀者・野間易通に直撃!

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対レイシスト行動集団「C.R.A.C」(旧「レイシストをしばき隊」)の野間易通氏

 都内某所、約束の場所に現れたその男は、開口一番、こう言った。

「あなたが去年取材した排外デモの記事を読みました。あの結論はくだらないね。記事の終わりに、カウンターがレイシストに対して『帰れ!』と言っていたのを『それもまた、排他の一種ではないだろうか』って書いてましたよね。まず、そこからして間違ってる」

「反日朝鮮人は半島へ帰れ!」「在日は日本から出ていけ!」などと叫びながら東京・新大久保などを練り歩く、「在日特権を許さない市民の会」(在特会)らの排外デモ。沿道には、排外デモのヘイトスピーチを糾弾する、“カウンター”と呼ばれる人々が陣取る。筆者は昨年4月、新大久保排外デモを取材し、そのルポをネットメディアへ寄稿した。

「帰れや! クズ! ボケ! カス!」
「お前らが新大久保から出てけよ! ゴキブリレイシストども!」
「これじゃオリンピックできねぇだろ! 日本人として恥ずかしいわ! アホ!」

 中指をつき立て、排外デモに罵声を浴びせる“反ヘイト集団”。その象徴的存在である「C.R.A.C」(旧「レイシストをしばき隊」)を主宰する野間易通にインタビューを申し込んだ──。

「“カウンターの『帰れ』も排除の一種”というあなたの記事の結論は、価値相対主義の悪い例。その前提には『どんな理由があるにせよ排除はよくない』という考え方がありますよね。僕らは、これにもアンチテーゼを唱えている。あの場でのカウンター側の『帰れ』は、『デモやめて家に帰れ』という意味であって、『外国人は国へ帰れ』という排外主義者の主張とは意味がぜんぜん違う。我々は『レイシストはここにくるな』『この場から排除する』とはっきりと言う。それを意識的にやることに、意味があると思ってる。『レイシストは町から出て行け』というスローガンは世界標準ですよ」

 小柄だが、独特の風格のあるその男、野間易通が反ヘイト活動を始めたのは今から5年前、2009年のことだ。当時は抗議集会などに参加しており、現在のように怒声をくりだすことはなかった。

「たとえば抗議集会に行くと、それは左翼・市民運動っぽいの人たちの集会なんですよ。今のカウンターみたいなガラの悪い人は僕と数人ぐらいしかいないわけ」

 野間いわく、当時存在した抗議活動というのは、「反植民地主義とか反帝国主義とかを前面に出していたから、そうした主張に賛同できる人以外が参画できない」という風潮があった。とはいえ、集団的でない個別のカウンター活動の規模は微小であり、野間も「何していいのか分からないから、見てるだけみたいな感じだった」という。「沿道からプラカードを上げるだけで彼らが大騒ぎして、こっちが悪者になってしまうみたいなことが何回かありました」

 2010年、野間は、在特会に対して独自にカウンターを行う高校生と中学生のグループに出くわしたことがあった。デモ終点の集会へ乗り込み、直接文句を言いに行くという。野間は「危ないからいっしょに行くよ」と、彼らに帯同した。

「僕らは、その高校生たち含めて10人いるかいないかだった。在特会側は200人くらいいるわけですよ。そしたら、むこうのやつらが騒ぎだして、高校生は200人に取り囲まれてしまった。そのとき催涙スプレーを吹き付けちゃって。彼は逮捕され、退学になってしまったんです。暴力を受けて反撃したら逮捕されてしまう。でも、反撃しないと身の危険がある。ジレンマですね」

■レイシストをしばき隊、結成までの葛藤

 11年の3.11以降、野間は反原発運動に身を投じていた。12年6月29日には、首相官邸の前に夥しい数の人々が集まり、原発反対の声をあげる瞬間を目の当たりにした。その数は10万人とも20万人とも言われている。この“金曜官邸前抗議”と呼ばれる反原発運動が始まったのは12年3月末。当初は300人くらいの集まりだったという。その後、夏へ向かって動員数はどんどん増えていくのだが、野間は著書『金曜官邸前抗議 デモの声が政治を変える』(河出書房新社)に、こう書いている。

《私自身も、原発に対して怒っている人がこんなに多かったのかと驚いた。そして、ときに楽しげにも見える街頭デモではなく、官邸前のような殺風景なところでじっと立ちつくしながらひたすら怒りの声を上げるほうが、多くの人にとって参加のハードルが低かったというのも意外だった。いや、盲点だったと言ってもいいのかもしれない》

 このとき発見した“怒り”というキーワードが、後の本格的な反ヘイト活動に活かされることとなる。

 2013年1月、野間は「レイシストをしばき隊」を結成した。だが、これは現在のように沿道から抗議の声を浴びせるというスタイルではなかった。在特会らはデモ終了後、“お散歩”と称して、新大久保の韓流ショップなどの店員や客に嫌がらせを繰り返していた。野間はそれをくい止めるため、仲間を商店街に配置した。いわく「暗がりに潜」んで行う「ステルス的」な活動。結果は大成功だった。在特会を一歩も商店街のなかに入れなかったのだと、野間は言う。

「しばき隊をやりますと宣言して、そこで何かがかわりましたね、やっぱり。僕自身もね、ずっと逡巡していた。火に油をそそぐんじゃないか、しばき隊のようなミリタントな活動によって、在日の人たちにとばっちりがいくかもしれない。いろんな迷いがあった。しばき隊を募集したとき、『迷惑だからやめてくれ』って言った在日の人も当然いたし。いつものように排外デモ側に『反日極左と戦う』みたいな動画を撮る材料を与えるのも嫌だった。しばき隊が最初ステルスだったのは、デモを刺激すると余計に混乱が起きると恐れていたからなんです。それらをふりきってカウンターをやる根性というか勇気というのは、当初はなかなか持てなかったんですよね」

 カウンターの規模が大きくなり、排外デモ側の人数を上回ったのは13年3月のことだ。沿道でプラカードを掲げる“プラカ隊”など、しばき隊に呼応した活動に人数が集まってきた。50、100、200と増えていく反レイシズムのプラカードを見て、野間は大いに感動したという。そして、カウンター活動はさらなる隆盛を見せていく。

「3月31日かな、人数が爆発的に増えた。そのとき初めて、カウンターが柏木公園の周りでレイシストたちを取り囲み、『帰れ!』ってシュプレヒコールを浴びせる展開になり、僕もびっくりしました。しばき隊、プラカ隊他、全部あわせて600人ぐらいいたと思う。4年前には、そんなこと絶対無理だと思っていたのに、実現したわけです」

 しばしば誤解されがちだが、新大久保でカウンター活動を行う人々のすべてが、しばき隊というわけではない。現場にいるしばき隊のメンバーはせいぜい数十人くらいで、あとはネット上の告知を見るなどして自然に集結した人々である。筆者が現場を取材しているときに出会った高校生らは、野間の名前もしばき隊の名前も知らなかった。ただ、韓流アイドルが好きで、差別的なデモは「許せない」と思い新大久保に駆けつけたのだという。まだ、あどけなさの残る少年たちであった。

「これだけの人が来たのは、ひとつは怒っている人が多かったということ。そして、その怒りの感情をストレートに表現するのが“アリ”なんだ、というスタイルになっていたのが大きい。もうその時点でしばき隊もプラカ隊も関係ない。モヒカンのパンクスとか見たことあるでしょ? ネットでしばき隊とか言われてるけど、違うから。でもやってることは同じなので、外部から区別つかないのはしょうがないけどね(笑)」

 カウンター活動は効果を発揮し、排外デモは中止になったりコースの変更を余儀なくされたりした。だが、一旦燃え広がった“怒り”の勢いは、しばしば排外デモ隊との物理的な衝突をも招くようになった。13年6月16日には、排外デモ側から4名、しばき隊から3名の逮捕者を出した。今や、その活動方針に疑念を抱く声は少なくない。実際に、彼らの活動に対して否定的な報道もなされている。

 そのひとつが『ニューズウィーク日本版』(14年6月24日号/阪急コミュニケーションズ)に掲載された〈「反差別」という差別が暴走する〉という記事だ。過激な言動によって「怒りのマーケティング」を確立し、運動の動員力とする。差別的な言論を、暴力をもって押さえ込む。こうしたカウンターの手法は「憎悪の連鎖」を生むだけではないか。日本は独り善がりの「正義」と腕っ節ばかりが支配する息苦しい国になるのか。そう記事のなかで酷評された。これに対するコメントを求めると、意外にも野間は客観的な視点から語り始めた。

「これがもっとも世の中を反映している記事だと思うんです。だいたいの人がこのぐらいの印象でしょう。……自分が知的レベルが高いと思っている人ほど、こういう結論に至るんだろうな。俺は、この種の記事はもっと早くに出ると思っていたんだけれども、意外と遅かったね」


■“どっちもどっち”という「価値相対主義」への反感

 昨年、野間は朝日新聞のインタビューを受けている(13年8月10日朝刊)。デモ隊もしばき隊も「どっちもどっちだな」という印象を受けるし、デモに抗議するにしても他にやりようはないのか?という朝日記者の問いに対して、野間は、理路整然とした「上品な左派リベラル」の抗議行動は「たとえ正論でも人の心に響かない」と答え、「何言ってるんだ、バカヤロー」と叫ぶのが「正常な反応」だと主張している。
 
「結局ね、大マスコミもみんな素人なんですよ。今まで自分たちには関係のないことだと思っていたわけだから。『議論が必要だ』みたいな通り一遍のことしか言えない。……アホか? なんで『ヘイトやめろよ!』って言ってる俺らと、ヘイトやってるレイシストたちが『どっちもどっち』になるんだと。議論を重ねていけばよい、対話が必要だと彼らは言う。だったら言論機関である新聞がなぜそれをやらない?」

 冷静に議論を深めよ――それは「メタ議論」であり、本質を置き去りにしている。そう野間は私見を述べる。朝日新聞のインタビューに応じるまで、野間は一切の取材を拒否していた。その後も“しばき隊と在特会の両意見を併記し公平に書く”とする方針の取材は断っているという。反ヘイトキャンペーンでないと協力しない、と。それは、自分たちに有利な報道のみを受け付けるという態度のようにも思える。

「反ヘイトに有利な報道しか認めないというのは、何が問題なんですか。民族的ヘイトも意見として尊重すべきだということ? 俺が言いたいのは、その“中立”は実際には中立ではない、ということ。マスコミが表現の自由が大事だと言うのならば、ヘイトスピーチはそれを侵害するという認識を持ってもらわないと、表現の自由を守ろうとしているとは認められない。ヘイトスピーチはマイノリティの自由権の侵害なんです。『ニューズウィーク』の記事を書いた社員編集者の深田政彦はね、俺たちが反原発運動をしていたときも、今回と同じようなしょうもない記事を書いたんですよ。それで、取材依頼に対してあんなくだらない記事だったら協力しない、反ヘイトの記事でないと受けないとメールを送ったら、『いやいや、反ヘイトの立場から書きます』って言ったから受けたんだけどさ。実際にはあれ、反・反ヘイトでしょう。彼は行動保守や在特会への批判はほとんどせず、それに対抗する側のあら探しをして、それもまた差別だと言っているわけですが、普通に考えて。先にきちっと断罪すべき“悪”があるでしょ? カウンターの批判は大いにやるべきだけど、ああいうバランスを欠いたものを見ると、彼の目的が反レイシズムでも反ヘイトでもないのは明らかでしょう。深田と『ニューズウィーク』はヘイトに加担したにすぎない」

 しばき隊に対する批判的言説への反論は、マスコミ以外にも向けられる。一部の「左翼」勢力もまた、野間たちに対して「いちゃもんをつけてくる」という。いわく、「ポストモダン、ポストコロニアリズムの泥沼のなかで何が正しいのか分からなくなった人たち」。

「彼らはなんでも必要以上に相対的に見る癖がついている。『断罪している我々のほうにも問題があるのだ』みたいなことを言いたがる。ヘイトスピーチ規制法をどうするのか、ということに対するマスメディアや知識人の反応も近いものがある。ようは、何もしないことのエクスキューズでしょう。俺は朝日新聞に対して『自分たちのほうに正義がある』とはっきり言った。ヘイトスピーチ対カウンターというのは“正義と正義のぶつかり合い”ではない。この問題をそういうふうに捉える時点であなたたちは間違ってますよ。追及しているわけでもなんでもなく、たんに無難なコメントを出しているにすぎない」

 見せかけの公平さを装うことは、たしかに「無難」かもしれない。だが、それが報道の精神ではないのか。

「いや、それは思考停止。判断をしていない。報道は公正であるべきで、“見せかけの公平さ”なんてものに意味はない。マイノリティを攻撃して差別し、排除しようとする在特会を叩くことこそが、社会的に見て“公正”であり公平さを重視した態度にきまっているでしょう。しかし彼らを叩くと、自分たちに攻撃の矛先が向く。それが面倒だからやらないだけでしょ。だから、一応公平に書きましたよ、みたいな形式をとる。これによってなにが起きるか。それは、議論の当事者になることの放棄です。マスコミは“議論すべきだ”と言うが、自身はその議論に参加ないわけ。そのうえに公正なジャッジすらできない」

 野間はこれまでずっと、「冷笑主義者」の「どっちもどっち論者」と戦ってきたと語る。彼らは「自分をリベラルだと思って」おり、「正義と言っている側にもじつは不正義があるのだ」という話を好む。たしかに、思い当たる節がないわけではない。だがそれでも、ひとつの立場を絶対的な正義と位置づけることが危険性を孕むのは、歴史的に明らかだ。

「そらそうかもしらんけどさ。今、『正義のなかにも不正義がある』と言うのがそんなに重要ですか? あれだけひどいレイシズムが蔓延しているなかで、それを正そうとする人たちだって聖人君子ではない。ポリティカリー・インコレクトな場合もあるでしょう。レイシズムの方が不正義としては断然問題が大きいのに、『ニューズウィーク』の深田のように『正義の中にも不正義が…』ってことばかり言いたがるのって、単なるサボりでしょ。何がいちばんの問題か。それをちゃんと共有していこうよ。賢くない人であればあるほど、ちゃんとそれができるわけです。ヘイトスピーチはおかしいと分かる。自分はちょっと賢いぞ、と思ってるような、でも実際にはアホなやつらが、いろいろとこねくり回して『本当の正義などないのだ』みたいな、クソくだらない結論に至って悦に入る。安い理屈で価値の相対化をする前に、もっと普通に考えろよということです」

 野間によれば、この「価値の相対化」こそが、在特会的なるものを生み出す背景になっているという。

「在特会自体も、そういう価値相対主義の上でなりたっている。〈「反差別」という差別が暴走する〉を書いた深田政彦みたいなやつはレイシストだとは言わないが、そうした価値観の混乱こそが今の日本のレイシズムの温床であり、本体でもあるんだよね。ようするに、ポストモダンの失敗例なんです」

「近代」という“大きな物語”が終わり、価値の相対化が生じるなかで、人々は個別に“小さな物語”を生きざるをえなくなった。それがポストモダニズムのひとつの前提である。たしかに、在特会など自称「行動する保守」の試みは、外交上の政治的失敗を経て「戦後」の価値観が揺れるなか、これまでの歴史の枠組みを破壊し、「市民」自らの手で再構築しようとするものなのかもしれない。

 だが、なぜこうした動きがレイシズムへと繋がったのか。野間は、在特会的なるものの正体をどのように考えているのか。そして、その歪な感情の矛を収めさせるには、どうすればいいのか。やはり“怒り”に根ざした行動をとるしか方法はないのか。しばき隊のように。野間は語りだした。

「実は、うちの親戚にもネトウヨ化している人がいるんですよ」

後編へ続く。

(語り手・野間易通〈敬称略〉/聞き手・文=HK・吉岡命)


■野間易通プロフィール
1966年生まれ。フリー編集者。首都圏の反原発運動を経て、2013年1月に「レイシストをしばき隊」を結成。排外デモへのカウンター活動の先陣を切る。13年9月にしばき隊を発展的に解散。新たに反レイシスト行動集団「C.R.A.C」(Counter-Racist Action Collective)として活動を続ける。

最終更新:2014.09.24 08:45

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